財団法人石井記念愛染園は、大正6年(1917年)に設立されました。1902年、石井十次は大阪にも孤児救済のための拠点を設け、1906年には託児所、夜学校、隣保事業などを開始していますから、その前身から数えると事業の歴史は、すでに100年を越えています。これだけ長い間事業を継続できているのは、多くの諸先輩の努力、地域社会の皆様のご支援、ご助力の賜物であります。深く感謝すると共に、我々の大いに誇りとするところであります。 我が国の社会保障制度は、近年内容的には、ますます充実してきています。しかし、制度にすべて委ねるだけでは、社会が幸福になるというものではありません。その背後には人間の心の優しさ、魂の温かさがなければならないことはいうまでもないことであります。かつて社会保障制度のほとんどなかった時代に、石井十次の偉大な魂が創り出した、この福祉事業を受け継ぐ我々は、日夜、石井の熱い情けを胸に、職務に取り組んでおります。

 石井が当園の事業を始めるに至った端緒は、1887年(明治20年)に、彼が岡山のとある大師堂で、母子の巡礼と出会い、男の子を引き取ったときだとされています。彼は、孤児の救済を自分のライフワークとすることを決意し、医師になる素志をあきらめ、岡山市に「孤児教育会」の看板を掲げました。爾来孤児の数は増加を続け、1905年(明治38年)には、1200人に達しました。
これだけの大世帯を切り盛りするには、石井の強い信仰と情熱を以てしても、極めて困難なことでした。そこで1898年(明治31年)、石井の事業に共鳴し、物心ともに手厚い支援を開始したのが、当時の倉敷紡績の経営者であった大原孫三郎であります。大原は石井の情熱と信仰心の深さに,感銘を受け、自らも聖書の勉強とキリスト教の信仰にのめりこんでいったのであります。
石井は、経営者としての冷徹な計算などは苦手であり、精神論、熱意論で、財政的困難に打ち勝とうとしましたが、意に任せず、大原の支援に依存すること大でありました。石井は日誌に「大原兄は、孤児院の会計の欠損せるに対しまだ一回も小言を言わず助力せらる・・・・毎月頼むものも頼むもの応ずるものも応ずるもの・・・・」と書くほどでした。
そういうことで石井と大原の関係は、年の差を感じさせない、深い、強い絆に結ばれ、石井が、1914年(大正3年)に早世した後も、大原は、彼の遺した事業を支援し続け、そのことが石井記念愛染園の設立につながったのであります。 現在石井記念愛染園は、隣保事業、介護事業、医療事業という三つの事業を併営し、職員数は700名を超え、外来・入院患者、保育園児、介護対象者等の利用人員も一日1800名となっています。大阪府の社会福祉法人として有数の存在であります。
当園は、かつて社会保障の基盤が極めて脆弱であった時代に、民間サイドの先駆的事業として出発した、歴史的存在であります。
そして当園が、これまで幾多の困難を乗り越えて、存続できた理由は、一つは石井の類稀な実行力、利害得失を超越して、孤児を救済するという隣人愛の強さ、情熱、強い信仰が、DNAとして我々の組織に継承され続けてきたことであります。
もう一つは、石井の事業を、石井の行動と信念に共鳴して、経済面、経営人材の供給面で支援し続けた大原の経営者としての貢献であります。
理念だけでは、組織は存続しません。
経営努力だけでも組織は存続しません。
時代を超えた理念と、幾多の経営陣の努力が,両両相俟って、存続してきたのであるとわれわれは自信を持って申し上げることが出来ます。

さて、この伝統ある社会福祉事業をめぐる環境は、ますます厳しくなってきています。巨大化した社会保障費用をまかなうには、財政的裏付けがまだまだ不足しています。国民は必ずしも「高福祉高負担」に賛同しておらず、わが国の社会保障制度の持続可能性には、依然として黄信号が点ったままであります。

こうした状況の下、我々は、1世紀以上にわたる事業の持続に自信を持ち、これからの制度改革に対し、現場から適切な提言を行い、我が国全体の社会保障制度の持続可能性に積極的に寄与するという気概を持って、仕事に取り組んでいきたいと念願しています。今後とも皆様方のご支援、ご助力をよろしくお願い申し上げ、ご挨拶といたします。

平成28年6月